投稿者「経営システム研究室」のアーカイブ

《情報は両方の意見を》

話半分に聞くという他に大切なのは、「両方の意見を取り入れる」というスタンスです。ともすれば偏りがちな情報収集ですが、そこをあえて対極の二情報を取る、というわけです。
インテリジェンス(謀報)の世界では、この手法があたりまえのように使われます。複数の情報を取る際、あるテーマに対してイエスと言っているものとノーと言っているものを必ず取り入れる、つまりそこに考え方や価値観のバイアスをかけない、収集した情報は時間をかけながら納得のいくところで判断するという手法です。
時間が経てば情報の「質」が変化する、という事実も忘れてはなりません。
情報の質が変化するというのは、その情報に対する信頼度が上がったり下がったりする、ということです。一年前は誰も信じなかったものでも、今現在は大勢に信じられている、逆に信じていたものが何らかの出来事によって信じられなくなる、ということはよくあります。
それは、時間の経過とともにそのテーマを取り巻く材料が増えることで、情報をチェックする精度(確度)が上がるからです。本当は歴史の信憑性(しんぴょうせい)に対しても、もっと疑ってかからないといけません。日本史の教科書からさまざまな武将の肖像画が消えたのも、別人がモデルであったなど新しい情報が次々と出始めた結果です。
逆に、ある情報が時間をかけて刷り込まれると、それは動かしがたい常識となります。歴史を、当時の時代背景を無視して、意図的に現代の観念でとらえて印象操作したり、事実の一部のみを強調したりして史実を歪ませるのは常のことです。
そういう情報をチェックしようとせず、ある方向から一方的に情報を流すマスメディアにはいくつかの問題があります。新聞やテレビなどのマスメディアが報道しているからといって、その情報をそのまま受け取るのは大きな誤りです。
そもそもマスメディアは、営利目的の企業だという事実を忘れがちです。
社会正義や国民目線など心に染みるような美辞麗句をマスメディアは並べますが、第二次世界大戦の際にすべての新聞社が戦争を煽(あお)った事実は記憶に残さないといけませんし、広告スポンサーや多くの圧力団体の意向には逆らわない、むしろその意向で読者や視聴者を扇動しようとすることが多い「マスメディアの構造」を頭に置きつつ、一つひとつの情報を精査すべきなのです。
これがメディアリテラシー(情報活用能力)の本質です。
その情報が本当に自分にとって有益な情報なのか、そこに気持ちの悪さや居心地の悪さを感じたりはしないか、他人事(ひとごと)ではなく自分事として感じながら複数の情報をチェックすることが大切です。日本は欧米と比べてこの部分が遅れており、今後の強化課題です。

《精一杯やってみる》

心配という言葉の本質は意外とわかりにくいものです。
人や周囲へ心を配るという良い面もあれば、自分や誰かの心を心配するという悪い面もあります。不安、不信、気がかり、悩み、こうしたマイナス要素を帯びた言葉と同じように、心配という言葉はどちらかと言えばネガティブな使い方が多いものです。
私たちが心配する状況は、主に次の三つの要素に分類されます。

①結果がわからないこと
②悪い結果が予見できてしまうこと
③その悪い結果を自分がコントロールできないこと

これは医師や医療スタッフにも当てはまりますし、もちろん患者さんや家族にも当てはまります。想定内の結果が見えていれば、「心配しないで大丈夫ですよ」と声をかけることで本人の心配は拭われます。
自分がコントロールできない背景には、「努力していない(足りない)」ことの他に「努力しても届かない」ことがあります。仕事でミスをする、難度の高い仕事ができないというのは前者ですが、経済が好転しない、天変地異が起こるというのは後者です。
大切なのは、自分がコントロールできないことは心配しないことです。どんな世界に身を置くにせよ、必須の条件です。要は、開き直る、思い切る、ということです。もういいやと思えば、対処していることの質が変わります。あれほど悩ましかったことが、実は大したことではなくなることも多いのです。何とかしよう、うまくやろうとすると、心配の度合いはどんどん上がります。
医療のプロである医師にも共通した心配事があります。

《適度な課題を》

 ポイントは、学校や塾で課題を吟味して出してもらうことであろう。本人の能力に合わせ「わかる問題」を七~八割、残りを「努力が必要な問題」に配分する。
 どうせできないから、と全部優しい問題にしたり、逆に本人の能力以上の難しい問題ばかりを並べないことだ。前者だと「自分はバカだと思われている」と考えて、後者だと問題が解けないのは「自分がバカだから」と思い込み、いずれにしても無気力になる。
 また正答が得られないときには「もうひと頑張りだったね」と、本人の「能力」でなく「努力」に原因帰属をする。能力に比べ努力は自分の力で変えやすいため、「頑張ってみる」と再挑戦に意欲を燃やしやすい。
 また人間は興味や関心のあることに「何だろう?」と目を輝かせる。探究反射を基に学習を組み立て、それも相手の能力に合わせ適度な課題を選んで与える。満腹時には食欲がわかないように、課題が多すぎると意欲が減退してしまう。
 このように、学習効果を上げるには、しつけや励ましよりもスモールステップを組み、少しの努力で結果が手に入るようにしたい。成就感が次への何よりの動機づけになるからだ。
 ノックの名手は手を伸ばして捕れるかどうか、ギリギリの位置にボールを打ち続けるそうだ。すると選手は必至で球を追い、捕球回数が増えるにつれ、さらに頑張るという。

《リフレーミング》

 必要性の除法助動詞は必要を表わし、次のような単語が使われる。・・・べきだ(should)、・・・べきでない(should not)、・・・ねばならぬ(must)、・・・してはならぬ(must not)、当然・・・である(ought)。当然・・・ではない(ought not)。
 ある一定の行動の規範が存在するのだが、それがはっきり示されていない。その規範を破ったら結末は(現実であれ空想であれ)どうなるのか? それが次のような質問で明白になる。

 「もし、貴方がそうしたら、または、しなかったら、どうなりますか?」

 「私はいつも他の人を優先させなければならない」

 「もし、そうしないとどうなりますか?」

 「教室ではしゃべっていけない」

 「もし、しゃべったらどうなりますか?」

 「私はこのメタ・モデルの分類を覚えなければならない」

 「もし、そうしないとどうなりますか?」

 「あの連中と話しちゃならねえ」

 「話したらどうなる?」

 「お食事の前には手を洗うのよ」

 「洗わなかったどうなるの?」

 一度こういった結末や理由がはっきりすると、考え直したり、批判的に評価したりできるのであるが、さもないと選択と行動の自由が制限されてしまう。

 行動の規範は言うまでもなく大切である。そして、社会の道徳的な約束によって成り立っている。しかし、「貴方は商取引において正直であるべきだ」というのと、「貴方はもっとたびたび映画を見るべきだ」との間には天と地の差がある。「・・・べきだ」と「・・・べきではない」にはそれに値しない道徳的判断がしばしば混入する。

 いろいろな発見は、「もし、・・・したらどうなる?」と問うことによって初めて可能だ。

 ・・・西へ西へと航海したら? ・・・光速で移動できたら? ・・・ペニシリンを増やしたら? ・・・地球が太陽を巡るとしたら? ・・・こういった質問が科学的方法の基礎である。

《民主主義》

民主主義では、よりよい社会を目指し、対話を重ねながら社会やルールをつくっていくことに意義があります。具体的な完成型があるわけでも、正しいプロセスがあるわけでもありません。つまり、ありのままの現実を受け止め、いま置かれている状況の中で、自分たちの社会をどうすればよくできるのかを考えていけばいいのです。

もちろんいまの段階でも日本という国は制度的にみれば民主主義国家ですし、18歳から投票ができ、基本的人権や言論の自由も憲法で保障されています。こうした基本的なことすら実現していない国が多く存在していることを考えると、日本人は恵まれているとさえ言えます。

しかし、制度だけあっても肝心の主権者である国民が、「自分たちで社会をつくるんだ」という当事者意識を持っていなければ、本当の民主主義とは言えません。

かつてドイツでは、ヒトラー政権が国民の支持を得て、合法的に選ばれました。民主主義とは仕組みだけあっても、国民が成熟していなければ間違った方向に進んでしまう不安定で危うい側面があるのです。その成熟した国民を育むことができるは、唯一[教育の力]だけ。私はそう考えています。

子どもたちに民主主義を教えよう  工藤勇一著から

 

《気持ちと事実をセットで》

ここからは話を聞くための質問に移っていきましょう。どんな小手先を使えば、いい質問ができるのか。

質問の基本は「詳しく訊く」に尽きます。「もうちょっと詳しく教えて」がベーシックな小手先。ひとまずはそのように尋ねてみるといいのですが、もう少し工夫することもできます。

相手が気持ちを話しているとき、「具体的に何が起きたの?」と事実を聞く。

「 彼氏とのあいだでひどいことがあって、すごい疲れた」とか「上司との関係がつらい」と言われても、よくわからないじゃないですか?だから、「何があったの?」と尋ねて、具体的なエピソードを話してもらうと良い。

逆に、相手が事実だけを話しているときは気持ちを聞きましょう。「友だちと遊びに行ったら、遅れて2時間も待ったよ」と言われると、つい「ひどい!」と言いたくなるけど、そこは5秒我慢してください。そのうえで「どう思ったの?」って聞いてみる。

もしかしたら「すごい豊かな時間だった」と彼は語りはじめるかもしれません。そうすると、今まで知らなかった彼の心が見えてきます。

事実と気持ちがセットで語られるとき、心は伝わってきます。だけど、普段の僕らは事実と気持ちのどちらかだけを話すようにしているものです。相手に心が伝わらないようにしているんですね。

それはそれで、悪くはない。

日々のコミュニケーションは、相手に心が伝わらないようにしておいたほうが安全ですから。でもね、あなたがせっかく話を聞こうとするのなら、両方がセットになるように聞いてみましょう。

気持ちを語っていたら事実を尋ねる。事実を語っていたら気持ちを尋ねる。これが質問のための小手先。

《命の器》

運の悪い人は、運の悪い人と出会ってつながり合っていく。やくざのもとにはやくざが集まり、へんくつな人はへんくつな人と親しんでいく。心根の清らかな人は心根の清らかな人と、山師は山師と出会い、そしてつながっていく。じつに不思議なことだと思う。“類は友を呼ぶ”ということわざが含んでいるものより、もっと奥深い法則が、人と人との出会いをつくりだしているとしか思えない。
どうしてあんな品の悪い、いやらしい男のもとに、あんな人の良さそうな美しい女が嫁いだのだろうと、首をかしげたくなるような夫婦がいる。しかし、そんなカップルをじっくり観察していると、やがて、ああ、なるほどと気づくときがくる。彼と彼女は、目に見えぬその人間としての基底部に、同じものを有しているのである。それは性癖であったり、仏教的な言葉をつかえば、宿命とか宿業であったりする。それは事業家にもいえる。伸びて行く人は、たとえどんなに仲がよくとも、知らず知らずのうちに落ちて行く人と疎遠(そえん)になり、いつのまにか、自分と同じ伸びて行く人とまじわっていく。不思議としか言いようがない。企(たくら)んでそうなるのではなく、知らぬ間に、そのようになってしまうのである。抗(あらが)っても抗っても、自分という人間の核をなすものを共有している人間としか結びついていかない。その怖さ、その不思議さ。私は最近、やっとこの人間世界に存在する数ある法則の中のひとつに気づいた。「出会い」とは、決して偶然ではないのだ。でなければどうして、「出会い」が、ひとりの人間の転機と成り得よう。私の言うことが嘘だと思う人は、自分という人間を徹底的に分析し、自分の妻を、あるいは自分の友人を、徹底的に分析してみるといい。「出会い」が断じて偶然ではなかったことに気づくだろう。
私はときおり、たまらなく寂しいときがある。私には親友がいないという気がする。親しい友人はたくさんいるが、真の友はひとりもいないなと思う。小説を、ひとり書斎にこもって書いていると、寂しくて寂しくてどうしようもなくなる。そんなとき、私は突然電話魔になって、夜中だというのに友人に電話をかけまくる。そしてしょんぼりと愚痴を言ったり、反対に虚勢をはって威勢のいい演説をぶったりする。小説を書くのはもういやだ。俺はもう疲れた。俺は機械ではない。俺はからっぽの錆びたバケツだ。もう何も出てこない。もう生涯小説なんか書けそうにない。そういって駄々をこねたりもする。電話をかけられた方は迷惑千万である。じゃあ、俺が代わりに書いてやるよなどとはいえる筈がないのだから。そして電話を切り、しょんぼりと蒲団(ふとん)にもぐり込んで、私はいましがた電話をかけまくった相手のことを考える。すると、その幾人かの友人もまた、真の友を持ち得ぬ者たちであることに気づくのである。どんな人と出会うかは、その人の命の器次第なのだ。
宮本 輝 著

《あなたの行動は自動運転》

あなたの行動にブレーキをかけているものは、「生まれつき持っている遺伝子」のせいではないのです。
では、いったい何があなたの行動を決めているのか。
ズバリ言えば、それは「潜在意識」です。
あなたの脳の中に、「こんなことをしていけない」というプログラムが潜在意識の中に埋め込まれているんです。
奴隷システムから抜け出すには、「そういうプログラムが潜在意識として脳内に組み込まれている」ことに気づいて、自分を客観的に俯瞰(ふかん)して見る必要があります。
この、自分の客観視なしには、どんなに本を読んでも、どんなセミナーに行っても、絶対に奴隷システムから抜け出せません。
それほど、「潜在意識」のパワーは強いのです。たとえば、何か行動をするとき。
自分で「考えて行動している」と思っているかもしれませんが、それは間違いです。
あなたの行動の95%以上は「自動運転」です。
なにも考えてなくても、食べたり、飲んだり、歩いたり、身体が自動的に動くうようにできている。
さ らに言えば、あなたが「一生懸命に考えた」と思っている1日にある1万2000~1万6000の思考のうち、95%は「前日とまったく同じ思考」、80%は「ネガティブな思考」でしかありません。
つまり、今日の行動の95%は無意識。
そして、今日の思考の95%は昨日と同じ考え。
そんなことを続けていて、人生が変わるわけがありません。なぜならば、
潜在意識に埋め込まれているプログラムが、
自分にブレーキをかけるからです。

《したい思考・すべき思考》

脳科学では、前頭前野が決定したことに認知的に従うことをトップダウンと呼びます。前頭前野でのコントロールによる「ダイエットすべき」、あるいは「リベラルであるべき」という思考は、トップダウンによるものです。

しかし、トップダウン的思考を行ったとき、実は後から振り返ると、意外に賢い選択がなされていなかった、ということも多いのです。よくありがちな例はダイエットとリバウンドの関係です。人は前頭前野でダイエットのメリットを思考します。容姿を良くしたい、健康に生きたい、とにかく目標を達成するクセをつけたいなど、自らのあるべき姿を設定して「ダイエットをするぞ」と決めます。すると、本来人間が持っている「食べたい」という本能、つまりボトムアップからの欲求をそれこそ365日、起きている間中、抑制していなければならなくなります。そしてダイエットのことばかりに脳のリソースを奪われ、他にやらなければならないことはたくさんあるのに気が回らなくなります。すると次第に面倒になり、あるいはあまりの面白みのなさ、つらさに嫌気が差してダイエットは主たる思考の座から追われ、リバウンドしてしまうというわけです。

《伝える力》

ビジョンは語ってこそ意義がある
世に出回るビジネス本を開くと、決まって「ビジョンなきリーダーは去れ!」といったことが書かれている。
しかし筆者はこういいたい。
「会話力なきリーダーは去れ!」
どんな優れたビジョンをもっていようと、それだけで組織を動かすことはできない。人を動かし、組織を動かそうとするなら、自らのビジョンを「言葉にして伝える力」が必要なのだ。
ペンシルバニア州の民間企業研究員、ロバート・バームは、183名の独立起業家・CEOを対象に調査をおこなった。
その結果、企業の成長率(利益・販売量)と経営者のビジョンには、これといった相関関係がなかった。そしてビジョンそのものよりも、経営者が自らのビジョンを伝える能力(ビジョン・コミュニケーション能力)が、2倍も重要であることが明らかになったのである。

中身よりも「伝え方」が大切
これは経験者に限った話ではない。
たとえば「オレはロックスターになってロスの大豪邸で暮らすんだ」という、傍目(はため)から見ればナンセンスなビジョンをもった男がいたとしよう。しかし、それがどんなに荒唐無稽(こうとうむけい)なものであっても、自分のビジョンを伝える能力、語る能力が優れていたら、「夢があってステキ」とついてくる女性も出てくる。
あるいは弱小野球部の監督が「甲子園で優勝するぞ」と途方もないビジョンを語っても、その伝え方さえうまければ生徒たちはついてくる。
人を動かそうとするとき、大切なのはビジョンではない。それをいかに語るか、という会話力なのだ。

生返事に隠れた本音を見抜け

わかっていないのに同意する人
仮にあなたが学生だったとして、学校の先生に怒られたとしよう。そして延々と説教されたあげく、先生から「わかったか」と聞かれる。するとあなたは、ほとんど条件反射のように「わかりました」と答えるだろう。たとえわからず、何ひとつ納得していなくても、だ。
もちろん、大人になってからも同じだ。
人は驚くほどに簡単に、口先だけの「わかりました」を使う。それを見抜けないまま相手をしていると、大変なことになるだろう。
カリフォルニア大学の心理学者、ジョージ、ストーンはおもしろい研究データを発表している。
病院のお医者さんが処方した薬を、どれくらいの人が指示されたとおり飲むかを調べたところ、43%もの人がちゃんと飲まず、また症状が緩和すると量を減らすことがわかった。
そして、薬の量が1個だと15%の人が量を減らし、2~3個だと25%の人が、5個以上だと35%の人が勝手に量を減らすことがわかった。
医者のいうことでさえ、これだけしか守れず、この程度にしか考えていないのである。

同意して議論を終わらせる
それでは、人はどうして易々(やすやす)と「わかりました」と口にするのか。
早い話、それ以上やり合うのが嫌だから、早く話を終わらせたいから「わかりました」と同意したフリをするのだ。 「わかったから、それ以上言うなよ」というわけである。
「わかりました」以外にも「はい」「なるほど」「そうですね」など、多くの言葉が口先だけで語られる。それを見抜く力も、重要な会話力のひとつである。