《指示待ち量産?》

 「教える」こと、答を与えることが、人びとの動きを規制していくことについて述べる。
 その一は、そのことを「発見」するチャンス、正確に言えば「消化・発見」のチャンスを奪うことだということである。教えられてしまったことは永久に「発見」できないからである。教える方のニーズでそうした場合には、なおさらである。
 他から教えられるのと自分で発見するのでは、人間に対して逆な作用をもたらすことを記しておかねばならない。
 「消化・発見」と言うには程遠いありふれた話、私の体験の一(ひと)コマである。
 朝、私を起こしにきた妻がカーテンを開けながら、「7時よ、起きて。(庭の)椿が咲いたわよ」と言う。眠気まなこをこすりながら、私が「ああ、そう」と何とはない返事をすると、彼女は「感動がないわねぇ」と言うのである。そのしばらく後のことである。日曜日ともなると早く目を覚ます私が、朝食前に庭に出ると、花水(はなみず)木(き)の白い莟(つぼみ)が二つ、三つと目に入ってきた。食堂に戻った私は妻に「花水木が咲いたよ」と声をかけた。ところが、キッチンで朝食の支度をしていた彼女は、私に背を向けたまま、ただ「あら、そう」と言うだけなのである。
 私は「感動がないねぇ」とは言わなかったが、この違いはどこから生じたのであろうか。答はきわめて簡単明瞭、自分で発見したか、他から教えられたかにある。季節が来れば花は咲く。しかも莟(つぼみ)を見て、そろそろ咲くこともわかっている。こんなに当たり前のことでさえ、自分で見つけると、ささやかながら心が動いてしまうのである。
 「あっ、そうか!」と、たとえ些細(ささい)なことでも自分で発見すると、人間はじっとしていられなくなってしまうのである。心が動いてしまうのである。ことの本質だと思えるようなことを発見しようものなら、それこそ身震いすることになろう。

 その二は、「教えることは強制することとほとんど同じだ」ということである。これは山陽特殊製鋼会長の日渡惺朗氏の言葉だが、教えられた方は、その答しか知らないのだからそう思うより他にないわけだ。
 その三は、考えるチャンスを奪って、その結果として、「答待ち」「指示待ち」族を量産してしまうことである。この社会の大部分の人が、すでにそうなっているのではないかと思う。
 その四は、教える方のニーズによって教えられたものは、人びとの中で「知識抗体」と化してしまうことである。もちろん、「教える」がゼロでよいと言っているのではない。