《主観的認知》 嫌われる勇希・・・岸見一郎著より

哲人: 事実として、なにかが欠けていたり、劣っていたりするわけではなかったのです。たしかに155センチメートルという身長は平均よりも低く、なお且つ客観的に測定された数字です。一見すると、劣等(れっとう)性に思えるでしょう。しかし問題は、その身長についてわたしがどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのです。

青年:どういう意味です?

哲人: わたしが自分の身長に感じていたのは、あくまでも他者との比較

つまりは対人関係   のなかで生まれた、主観的な「劣等感」だったのです。もしも比べるべき他者が存在しなければ、私は自分の身長が低いなどと思いもしなかったはずですから。あなたもいま、さまざまな劣等感を抱え、苦しめられているでしょう。しかし、それは客観的な「劣等生」ではなく、主観的な「劣等感」であることを理解してください。身長のような問題でさえも、主観に還元されるのです。

青年: つまり、われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのだと?

哲人: そのとおりです。私は友人の「お前には人をくつろがせる才能があるんだ」という言葉に、ひとつ気づきを得ました。自分の身長も「人をくつろがせる」とか他者を威圧(いあつ)しない」という観点から見ると、それなりの長所になりうるのだ、と。もちろん、これは主観的な解釈です。もっといえば勝手な思い込みです。

ところが主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だというところです。自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。いずれも主観に委(ゆだ)ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。

青年: ライフスタイルを選びなおす、というあの議論ですね?

哲人: そうです。われわれは、客観的な事実を動かすことはできません。しかし、主観的な解釈はいくらでも動かすことができる。そして私たちは主観的な世界の住人である。と・・・。