《酒田の本間家➂》

 本間家三代目は光丘ですが、本間家中興の祖と呼ばれています。通常三代目は初代・二代と蓄積してきた財産・信用を食いつぶすといった傾向が強いのですが、光丘は事業はもとより公共的なものや神社仏閣への支援、そして庄内藩への多額の献金をしています。

 当時の記録によれば、『酒田の港より東北のほう、山を越え、磯を伝い、いさごをふみて其の際十里、日陰ややかたぶくろ、潮風真砂を吹き上げ、雨もうろうとして鳥海の山かくる。闇中に模索して、雨もまた奇なりとせば、雨後の青色またたのもしと、あまのとま屋に膝を入れて雨の晴るを待つ』酒田の町は最上川にのぞみ、日本海の潮風をまともに受け、風の日は全町みるみる砂塵に見舞われ、日中でも暗くなりほとんど目も開けていられない状況だったようです。

 このような風砂の害を防ぐために砂防林に着手したのが、三代目光丘です。現在も立派な砂防林が酒田市を守ってくれています。現在光丘の功績を称えて『光ヶ丘』と呼ばれています。

 本間家は、質素・倹約・勤勉を大切に事業を営んできましたが、光丘39歳歳の時に次の家訓7カ条を制定しています。
➀朝寝すべからざること
➁万事勤方忘れるべからず
➂米金等請合加判致すべからず
➃酒盛二重盃致すまじきこと
➄穀物買入致すべからず
➅無用の者、出入りせぬこと
➆無用の夜行致す間敷きこと
 他に本間家では、《宗家主義》を取っていて分家・親戚は重要事項については本家に相談又は許可を受けることになっています。

光ヶ丘の砂防林