《城づくりの名人》

徳川(とくがわ)家康(いえやす)は、慶長(けいちょう)11年(1606)、江戸城の増築工事を、諸大名に命じた。
大名にとっては、その労力と費用を、無償で提供しなければならないから、たまったものではない。自分に割り当てられた部分を、いかに速(すみ)やかに終えるかが、経費の負担を大きく左右する。
この工事で、後世への教訓となる事件が起きた。
桜田から日比谷(ひびや)にかけての石垣造りは、加藤(かとう)清(きよ)正(まさ)*(熊本城主)と、浅野(あさの)幸長(よしなが)*(和歌山城主)に命じられた。
加藤家では、建設現場に沼が多いことを確かめると、まず、付近の山野から、カヤ*を刈り取ってくるように指示を出した。
毎日、大量のカヤが運びこまれてくる。それを次々に沼へ投げ込んでいくのだ。さらに土をかぶせて平坦なグラウンドができ上がると、今度は、10歳から14歳くらいの子供を大勢集めてきて、思う存分、遊ばせた。朝から夕暮れまで、大人も交じって、笛や太鼓をたたき、踊ったり、歌ったり、大変な騒ぎが、何日も続いたのである。

一方、隣の浅野家は、沼を埋め立てたら、すぐに石を積み始めた。
工事は至って順調である。
石垣が半分以上でき上がるころになっても、加藤家の持ち場には、石さえ運ばれてこない。子供たちを遊ばせているだけなので、浅野の家臣は、
「一体、何を考えているのか。もっと真面目にやれ!」
と、あざ笑っていた。
加藤家の現場監督は、子供たちに踏み締められて、十分に堅くなった地盤を確かめてから、ようやく石垣を築き始めた。
当然ながら、完成したのは、浅野家よりも、ずっと後だった。

間もなく、江戸を台風が襲った。すさまじい暴風雨である。
この大雨で地盤が緩み、浅野家が築いた石垣は、何ヶ所も崩れおちてしまった。だが、慌(あわ)てず、急がず、じっくり基礎を固めてから築いた加藤家の石垣には、少しも損傷はなかった。
基礎をおろそかにした浅野家は、かえって修復工事に莫大な経費を投ずることになってしまったのである。
この教訓は、江戸時代を通じて、長く語り継がれることとなった。

*加藤清正(1562-1611) 安土桃山時代の武将 尾張国(現在の愛知県)の生まれ
*浅野幸長(1576-1613) 安土桃山時代の武将 近江国(現在の滋賀県)の生まれ
*カヤ 屋根をふくのに用いる草の総称