《星野富弘名言集》

「そのままで字を書いたら、どうでしょう。」
その時、横むきになったわたしに、篠原さんが言ったのです。
横向きですから、頭を持ち上げる必要はありません。くわえたサインペンの先すれすれにスケッチブックを立て、頭を少し前にずらせば、ペンの先が紙につきます。くわえたペン先も、スケッチブックを握っている篠原さんの腕も、ぶるぶると震えていました。でも、書けたのです。
それが、あのシルバー仮面のスケッチブックの最初のページに書いてある、かたかなの「ア」でした。
ペンにまきつけて、くわえていたガーゼはだえきでぐっしょりぬれ、あまり力を入れていたので、歯ぐきから少し血が出て、ガーゼにしみていました。横からのぞきこんでいた母も、わたしと同じように歯をくいしばってしまい、ひたいに汗をにじませていました。
小学校へ入る少し前、はじめて自分の名前が書けるようになった時のように、嬉しくて仕方ありませんでした。あの時も、嬉しさのあまり、電信柱にまで、自分の名前を書いてまわったものです。目の前が、パァーッと明るくなりました。
次の日も、その次の日も、横向きになるのが楽しみでした。字が書けたといっても、ミミズがのたくったような字ですが、一字でも、一本の線でも、何にもできないと思っていたわたしにしてみれば、スポーツで新記録を出したような喜びでした。
一字ずつ増えていく文字を見ながら思いました。
もう一度、器械体操をはじめた時のような気持ちでやってみよう。
器械体操の美しい技も、いきなりできる人はいません。まったく見栄えのしない、一つひとつの基礎になる技を、毎日毎日練習して、正確に身につけ、それを積み重ねて初めて、あの美しい技となるのです。
わたしの書く文字も、今はへなへなして、見かけの悪いものだけれど、時間をかけて、一本の線、ひとつの点をしっかりと書けるように練習していけば、いつかきっと、美しい字が書けるようになると思いました。

病院の裏庭でペンペン草を見ていて、その三角の実が、小さなこぶしのように見えた時のことを、こんな詩にしてペンペン草の絵に添えました。

神様がたった一度だけこの腕を動かして下さるとしたら母の肩をたたかせてもらおう
風に揺れるぺんぺん草の実を見ていたらそんな日が本当に来るような気がした