月別アーカイブ: 2013年5月

《もつれた心ほぐします》

 読売新聞の人生相談で、精神科医の野村総一郎さんが時々回答を出しています。なかなかの回答に思わずうなることもありますが、一冊の本にしたものが出版されていますので、今日は一つご紹介します。

【いじめられ退職、悔しい】・・・・・仕返しをしたくなる自分が嫌に
 40代女性。2年前、職場でいじめに遭い、10年間勤めていた仕事をやめました。そのことは家族にも話し、理解してもらっています。新しい仕事も見つかり、同僚にも恵まれています。友人もおり、家庭内にも問題はなく、今は充実した生活を送っています。
 ところが、いじめられた記憶がいまだに残っているのです。時がたてば忘れられるだろうと思っていたのに、憎しみは増すばかりです。
 当時私をいじめた女性は不倫をしていました。相手の男性が私にも言い寄ったことを知り嫉妬したようです。もちろん私はその男性とは何もありません。事情が事情だけに私は上司に説明できませんでした。逆に悪者にされ退職しました。そのことを思い出すと悲しくなり、女性に仕返ししたくなるのです。そんな自分が嫌になります。   (東京・L子)

【アドバイス】・・・・・・あなたの対応は正しかった。過去にこだわっては損するだけ
 これは悔しいですね、いじめの内容が詳しく書いてあるわけではないんですが、それでも、読んでいる私も悔しくなって、『なんてひきょうな!』と思わず叫んでしまったほどです。何しろ10年も勤めていた仕事を不当な理由で辞めざるをえなかったんですからね。
 ただその一方で、この時のあなたの対応はなかなか良かったようにも思えます。もしあなたが弁舌さわやかに相手の不倫や嫉妬心のことを述べてたらどうなったか?これは証拠立てることが難しいし、おそらく仕事に直接関係しない事柄だけに、あなたの方が卑劣の誹りを受け、相手はさらにひどい手を使ってあなたを攻撃したかもしれない。仕事を辞めたのは確かに不当で残念な事ですが、現在の職場や家庭の充実を考えると、それすらも結果論としては悪くなかったんです。
 多くの人が心に忘れられないトラウマ(精神的外傷)を抱えているものです。それが現在に直接影を落としていないとすれば、やはり現実生活でそのことにこだわっては損をするだけです。トラウマを忘れる為には何らかの象徴的な、ある種の儀式的行動が必要とも言われます。この欄への投稿自体がそのような役割を果たせたらすごくうれしいです。

 最近は、70代の年配の方々の投稿が結構ありますね。
 
 
 

《ペーシング》

 阿川佐和子さんの著書“聞く力”のなかに、《ペーシング》についての記述がありましたのでご紹介します。

※九十七歳の反論
『ちょっと、私の話も聞いてちょうだい!』
驚きました。でも確かに九十七歳の伯母の言い分はもっともです。いくら高齢と言ってもまだ気力も体力もしっかりしています。昔に比べれば言葉を発するテンポが遅くなってはいるものの、人と会話が成立しないほど惚けているわけではありません。
『あ、ゴメン』反省しました。
 そのとき私は初めて、老人のテンポについて考えました。テンポが遅く、質問してもなかなか答えが返ってこないと、つい、『惚けているのかな?』と思い込む。そしてこちらは何かと忙しいものだから、言葉が出るまで待っていられない。よって催促する。あるいは代わりに答えてあげる。
『何が欲しいの?』
『あーっ・・・・』
『お醤油?お醤油はあんまりかけないほうがいいって、お医者様に言われてたでしょ。塩分が強いんだから。うす味が身体にいいのよ』
『でも、明日は・・・・・』
『なに、明日?明日のことは今、決めなくていいの。心配ないから、ね』
 高齢者のゆっくりした話し方を聞いていると、最後まで我慢できず、つい先回りしたくなります。でも、待っていられないのは一方的にこちらの都合であり、高齢者は自分の言い分を無視されて、おおいに傷ついていることでしょう。
 高齢者に限らず、人にはそれぞれに話すテンポというものがあります。
 ゆっくり話をする人にインタビューするとき、相手の答えが出でくる前に、こちらで予測して答えてしまうことがある。どちらかというとせっかちな私は、ときどき、やってしまいます。
 答えるはずのゲストが答えない。しばしの沈黙が続く。どうしよう。この答えは諦めて、次の質問に切り替えようか。それとももう少し待とうか。
 迷うところです。迷った末、同じ質問を、別の言葉で言い換えることもあります。そうすることが正解である場合もありますが、あまり多用しないほうがいい。
 言葉を置き換えたり、答えを促したり、一見、親切な聞き手のようですが、結果的には答えようとしている人を追い立てることになります。
 ここは我慢大会。沈黙が続いたとき、私はいつも、そう思います。テレビやラジオの仕事の場合は、放送中の沈黙は、放送事故と思われかねないので、あまり長く待つことができませんけれども、それ以外での対談なら、できるだけ待つ。
 若い頃はこれができませんでした。質問を見失ったと思われることが怖かったからです。答える側がテキパキ答えてくれないなら、すぐさま次の質問に移ることのほうが有能だと思っていたのです。でも、このごろは、ジッと待っていると、相手の心や脳みそがその人なりのペースで動いていると感じられることがあります。決して故意に黙っているわけではない。今、お相手は、ゆっくり考えているのだ。そのペースを崩すより、静かに控えて、新たな言葉が出でくるのを待とう。その結果、思いもかけない貴重な言葉を得たことは、今までにもたくさんありました。

 “ペーシング”と“沈黙のコーチング”について分かりやすく書いていますね。コミュニケーションスキルとして活用してみたいものです。
 

《人事考課のギャップ》

人事考課制度の運用では、自己評価と上司評価のギャップ、現状と期待人材像とのギャップを埋めていくといった作業は極めて重要になると考えますが、『ザ・ゴール』の著者 エリヤフ・ゴールドラットの本に参考になるような事が書いてありましたので、ご紹介します。

そもそもよくない関係、調和のない関係とはどのようなものだろうか。仲間意識や忠誠心といったものではなく、不平や不満にあふれている関係は当然、良好とは言えない。例えば、一方がほとんど全面的に相手に依存しているのに対し、その相手が他にいくつもの選択肢を有している場合など、両者の間に大きな不釣り合いがある時はそうなる場合が多い。
問題は、こうした状況の時、多くの場合、強者の方が相互の関係には特に問題などないとしてしまうことだ。自分の行為が相手にどのような敵意を抱かせているのか、強者には見えなくなってしまう。
では、どういう場合に、こうした両者の関係、調和とは程遠い、よくない関係が表に露呈してくるのだろうか。
それは、自らの利益のために、一方が相手に対し大きな変化を求めた時だ。
どういう時に、そうした大きな変化を要求するだろうか。
例えば、一方が自らの利益を増やすために必要な分析を行ったとしよう。そして分析が終わって、その変化によって利益が大きく増えるという結果が出たとしよう。すると、その変化は非常に重要な変化、根本的な変化で、それを実現するためには、相手側にも同じ変化を求めるべきだということになる。しかし、相手にそれを求めるのはそれほど簡単なことではない。私の経験では、変化が重要であればあるほど、根本的であればあるほど、相手が異議を唱える可能性が高くなる。そして、関係がもともとそれほど良好でなければ、相手の反応はおそらく否定的か、場合によっては非常に攻撃的にもなり得るのだ。

人事考課のフィードバック面接でギャップを埋める作業というのは、まさに相手に変化を求めることになりますね。面接の進め方によっては、博士が書いているように、『否定的』『攻撃的』になったりします。十分に注意をしながらの面談が必要になるものと思います。

《どうにもならないこと》

 ウェイン・W・ダイナー著 『シンプルに生きる』から

※ なぜ明日の天気に気を揉むのか
 天候が人力では変えられないということぐらい、今さら言うまでもないはずである。だが、胸に手を当ててつらつら考えてみると、気温や風、雨、嵐などについて自分がどんなに気を揉んでいたかがわかる。そのことが実は、あなた自身が犠牲になっていることの証なのだ。
 もちろん、無理して『悪天候が好きだ』というふりをする必要はない。だが、天候によってあなたが少しなりとも縛りつけられているとしたら、考え方を変えるようにしたほうがよいだろう。

※ 一日は24時間はそれ以上でも以下でもない
 好むと好まざるとにかかわらず、時間は常にまったく同じペースで流れていく。1日は24時間なのだ。時の経つのが速すぎるとか遅すぎるとか、一生こぼしつづけることもできるけれども、そんなことを言って悩んでいるうちに、いつの間にか少しずつ年をとってしまうのだ。

※ 自分の年齢を逆から数えることはできない
 年齢は、変えることはできない。たしかに、外見や態度、服装を変えることはできる。そして、自分をいくつと感じるかといった意識を変えることはできる。しかし、実際の年齢は、どうしようもないのだ。年をとったものだ、とこぼしても、何も変えられない。むしろ、こぼせばこぼすほど、実際よりもずっとふけて、疲れ果て、油がきれて、身体の節々が痛むような気がするくらいのものなのだ。

 この世界で何かを変える為にはたらきかけるというのは、本当にすばらしいことである。しかし、自分の立場をわきまえることも、変えられないことを受け入れることもまた大切である。 

《コミュニケーション》

 伊藤守著 『コミュニケーション100』より

 完了したコミュニケーションが私たちに生きる喜びをもたらし、
 未完了のコミュニケーションが私たちから生きる望みを奪う。
※【未完了】とは、投げたホールを受け取ってもらえないこと、または受け取らないこと。あるいは、受け取れないボールを投げつけられること、投げつけてしまうこと。そして、なぜなんだろうと、その答えをひとり、探し続けている状態。

 だから、コミュニケーションを始めたら、
 必ず、『完了』させなさい。
※完了とは、相手のメッセージを受け取ること、そして、受け取ったと相手に伝えること。
 
 聞きなさい。
※相手が話している間、相づちを打ちながら、内心、自分ならこう思うとか、次にこう言ってやろうとか考えているのは、聞くことではない。

 ほんとうに、聞きなさい。
※黙っているから聞いているわけではない。

 最後まで聞きなさい。
※ひょっとしたら、あなたに都合の悪いこと、あなたが自分のやり方を変えざるを得ないようなことを話し出すかもしれませんが。

 もっと話させなさい。
※それが、あなたの100万の励ましの言葉より、相手を勇気づけます。

《フィードバック》

 よく耳にするのは、人事考課制度でのフィードバック面接ではないでしょうか!今日は、フィードバックについて考えてみたいと思います。

 フィードバックとは、ちょうど鏡で自分の容姿を確かめて(自分に関する情報を得て)身支度(自己改革)をするのに似ています。鏡に映る自分がどんなにひどい顔をしていても、それをどれだけ素直に受け止めるかで自己改革の程度が変わってきます。人事考課におけるフィードバック面接では、上司を鏡に例えていることになるわけです。
 素直に受け止める、すなわち醜く映っている自分の姿を『自分のせい』として自分を責めたり、『人のせい、環境のせい』として人を非難することなしに『ありのまま』『あるがまま』に受けとめてみることです。
 例えば、フィードバックに対して相手を非難するといったことは、朝寝起きで非常に乱れた髪の毛をした人が、鏡に映ったとします。その幻影に対して、この鏡に映った自分を指しながら『あいつはなんだ、あんなヘンな格好をして』と非難していることと同じです。
 鏡は、単に自分のあるがままの姿を映しているだけなのですから、それを素直に情報として受け取って、その鏡を使って髪の毛を整えればいいのです。
 そういう、自分のありのままの姿を見つけて、非難もしない、自分を責めもしない、それが自分のありのままの姿を映しているんだということを、素直に見られる・・・・・・というのが、正しいフィードバックの受け方だと考えます。

《ポジティブ思考?》

 人がある行動をして身体に刺激を受けたとき、それが報酬系を刺激するか罰系を刺激するかは大脳、つまりは本人の意思によってコントロールできるのである。同じ行動でもそれを意思がどうとらえるかで、身体に与える影響は変わってくる。
 このことは、とりあえず私たちにポジティブ思考の大切さを教えてくれる。『身体にいい』『自分にとってプラスだ』『きっとよくなる』など、プラスにものごとを考えるのは決して観念的にいいだけでなく、実際に身体にいい作用を与えるということだからだ。ものごとをプラスの方向にとらえていくことは、心を落ち着かせるだけでなく、直接身体を健康にするのである。
 人が同じものごとに出合った時、それを報酬系で処理するか罰系で処理するかを自由に選べる権利があることは、人が生き方の自由をもっているともいえるだろう。元気にイキイキと過ごしたいと思えば、意識的に自分でその選択を行えばいい。逆に考えれば、いまつらい生き方をしている人は、自分自身がどこかでその選択を行っている場合が多いのだ。
 最近は、ポジティブ思考の反動からか、マイナス思考を勧める本も増えている。中身を見れば、ポジティブ思考だけじゃダメなんだ、というのはネガティブ思考的な、悲観的な考えをすればいいということではない。いまのような時代は、なんでもポジティブ思考で乗り切ろうとするのは危険だ、ということである。『がむしゃらに頑張れば成果がでる』という考え方はそろそろやめるべきじゃないか、ということだ。

 ポジティブ思考・ネガティブ思考、あなたはどのようにとらえますか!

《国民栄誉賞》

 今日は、ミスターと松井選手の国民栄誉賞授与の日ですけど、この国民栄誉賞の第1号は王さんなんですね。そこで王さんの回想録を紹介したいと思います。

『努力しても報われないことがあるだろうか。たとえ結果に結びつかなくても、努力したということが必ずや生きてくるのではないだろうか。それでも報われないとしたら、それはまだ、努力とはいえないのではないだろうか』
 
 王さんは、昭和34年に読売ジャイアンツに入団。チームの主軸として活躍し、引退するまでの22年間に、868本のホームランを放った。『世界の本塁打王』と称賛されている。
 実は、そんな王さんも入団後3年間は『三振王』とヤジられるほど低迷が続く選手だった。
 どん底で迎えた4年目、劇的に生まれ変わった。いきなりホームランを連発するようになり、その年の本塁打王に輝いている。
 一本足打法を考案した荒川コーチは、次のようにコメントしている。
『朝4時起床、寒稽古に始まり、素振り、その日の試合をやって、また素振り、終わるのが深夜0時ということはたくさんあったし、朝までバットを振らせ続けるのもしばしば。これは遠征先でもそうだった。それを見た川上監督がたいそう驚いたのをよく覚えている。それに何が大事かって! 毎日やることが大切だった。努力というものは毎日の積み重ねだから、けっして休んではいけないんですよ』 

 私の記憶の中にもあるのですが、昭和46年9月15日の巨人対阪神戦。(何度か再放送されています)
 王さんは、江夏投手に翻弄され、3打席連続三振を喫してしまった。9回の表4打席目が回ってきた。フルカウントからの内閣ストレートを渾身の力を込めてたたいた。打球はライトのラッキーゾーンへ飛込み、逆転のホームランとなった。世界記録868本のホームランの中で、目に涙を浮かべてダイヤモンドを回ったのは、この一本だけだったという。
『長期スランプのどん底で打ったホームラン。だからよけいに嬉しかった。涙が出るのも当然だった。“努力”すれば必ず報われるんだ、ということが嬉しかった』
 王さんの言葉には、ひたすら努力に徹した人の重みがある。

《やるか、やらないか》

 毎月一回ダスキンさんが持参して下さる『喜びのタネまき新聞』を楽しく読ませて頂いてますが、今月号は自分と少しカブルところがあって興味深く感じました。

 “やるか、やらないか”  ダスキン社長 山村輝治
 先日、大学で講演をする機会をいただきました。1200名もの学生を前にしての話は初めてで緊張しましたが、これまでの人生で経験したことを中心に話をしました。
 まだまだ人生の半ばで、失敗ばかりしていますが、人前で話す機会をいただいて多くのことを学びました。学生たちはノートを取りながら耳を傾けてくれましたが、自分自身が一番勉強になりました。語る内容を考え、資料を作り、話の筋道を考えながら何度もリハーサルを重ねました。そうしているうちに、改めて、自分は多くの人たちから教えられ、学ぶことの多かったことに感謝の気持ちが溢れてきました。
 誰でも人前で話すのは苦手で緊張するものです。困難な事に遭遇するとつい逃げたくなるし、楽な方向に向かいがち。苦手な事を一つひとつ乗り越えることが成長につながるはず、講演も天が与えて下さった学びの場、とお受けしたのです。
 生きている限り楽しいことばかりではありません。苦しいことや悩むことに必ず出会う。そんな時に『やるか、やらないか』の二つの道があれば、気持ちを前向きに『一歩前へ。進んでやるか!』という気持ちを持ってこれからも歩んでいきたいと思っています。

 よく言われることですが“やるという選択もリスクテイク、やらないという選択もリスクテイク”だとするならば、やるという選択!!迷った時には、まずは行動するということなんでしょうね、

《終末医療を考える》

今、介護福祉の現場で『以前は病院から胃瘻の処置をされて利用者の方々が施設に帰ってきてたけど、最近胃瘻の処置をしなくなりました』と言ったようなことを耳にするようになりました。
2006年の新聞記事ですが、ご案内します。
医師による安楽死の疑いがあるとして同病院が県警に通報。県警は、殺人の疑いもあるとみて、外科医師らから人工呼吸器を取り外した経緯などを詳しく聞いている。病院側によると、亡くなった7人はいずれも高齢で、終末医療を受けていた。人工呼吸器の取り外しについては、『病院としては家族の同意を得ていると認識している』としている。射水市によると、この外科医は95年4月から同病院に勤務。昨年10月、受け持っていた70歳代後半の男性患者について、人工呼吸器を外したいと院長に申し出たが拒否されたという。
このため、同病院が内部調査を始め、それ以前の外科医師による人工呼吸器取り外しと、患者7人の死亡を確認。昨年10月、県警に通報した。外科医師は、自宅待機を命じられた。
人工呼吸器を外した経緯については、患者からのはっきりした意思表示は無く、医者と家族との『阿吽の呼吸』で決められた、と外科医は語っている。呼吸器を外すことについて書面による同意は家族から取っておらず、事件以降同病院では書面による同意をとるようにと方針を決めたそうである。ただし、亡くなった患者さんの家族からは誰一人、この先生に対する批判らしい意見はなく、全員が感謝していたとのことである。

家族の同意があれば、無罪になるのでしょうか?家族の治療の打ち切りに署名する時の気持ちってどうなんでしょう?高齢化社会をむかえて皆で考えなければならない大きな問題だと考えます。

少し外れるかもしれませんが、最後にこんなエピソードを!!
『近畿大学の小児科だったと記憶しているが、末期の小児患者がいよいよという時には、全ての生命維持のための管を外すという。なんのために?最後の瞬間、親に抱いてもらうために』