《編集手帳》

 読売新聞の“編集手帳”から

 横綱双葉山の70連勝を阻んだ安芸ノ海に逸話がある。
 
 師匠(出羽海親方)はさぞかし喜んでくれるだろう。意気揚々と部屋に戻ったが、二コリともしてくれない。

 やがて師匠が言ったという。『節男(安芸ノ海の本名)、勝って騒がれる力士より、負けて騒がれる力士になれよ』 相撲に限らず、むずかしい注文である。偉大な記録そのものよりも、記録を産み落とす苦しみのほうに照明のあたりがちなその人は、生けるお手本かもしれない。

 その人こそ、大リーグで3000本安打を記録したイチロー選手である。のこり二本に迫ってから、無安打が7試合続いた。

 苦しかったという。『誰にも会いたくない時があった』と、偉業を成し遂げた後の記者会見で語っている。『僕も、切れば赤い血が流れる。緑ではない』とも。打って当たり前、打たないことで騒がれる過酷な宿命を背負った人の“肉声”だろう。

 サラリーマン川柳の旧作にある《打てぬ日もあるイチローを好きになり》。あの天才にも悩める日があるのだもの、凡才の俺が落ち込むまいぞ。驀進して世を酔わせ、足踏みして世を慰める。

 希有の人である。